「茶室の中は平等」という言葉がありますが、20年近くお稽古をしていて感じるのは、
「平等」
というよりは、
「茶室の中は対等」
といったほうが、合う感じがします。理由は、「平等」は、誰かから見て分け隔てなく。っていう印象ですが、「対等」は個々人が尊重されるからだと思います。
茶室の入り口、躙口で頭を下げて入室するから、地位関係なく「平等」?
「茶室の中は平等」と言う言葉は、よく知られていると思います。
それは茶室の入口が、躙口と言って身を屈め。頭を下げなければならない。誰でもどんなに偉い人でも頭を下げ。茶室に入ることで、外での身分は関係なく、茶室内では平等である。というものです。
実際には、茶室には様々あって、外の身分をそのまま維持している茶室もあります。一段畳が高くなっており、そこに立場の高い人が座る定位置とした茶室も存在しています。
「将軍と下の者が茶室でお茶を飲む」という時に、本当にそれは平等となっていたのかな?という疑問がありました。
私が考えたのは、将軍と下の者が席を共にするというのは、
「上の者に意見が言える機会を与える」
だったのではないかなとおもいました。対等の立場で、いつもは上に言えないことが言える。また、上が下の意見を聞く機会として、皆一緒に茶室に入り、お茶を飲むということだったのではないでしょうか。
偉い人が下に降りてきて「話を聞こう」という気持ちの準備をするために、躙口で頭を下げて対等になろうとするスイッチを入れたのかもしれません。
下の者は、茶室では、茶道の道具や書の知識を勉強し、それについて話しつつ、自分の意見を表現できた人が、取り入れてもらえたのかもしれませんね。
お稽古場は居心地がいいのは対等だから
今まで、お世話になったお稽古場は、どこも居心地がよかったです。
たまたま、いい先生に巡り会えていた。というのもありますが、それだけでない何かが、この居心地の良さを出している気がしていました。それは、どこからくるんだろうと。
「お茶の稽古を積む」ことが世俗社会の立場と関係なく、「みんな1からのスタート」だからかな。と最近思います。
お稽古をしていて感じることは、どんな年齢や職業でも、お互いに対等な関係であろうとすることです。お点前で疑問があれば、勉強していそうな人に尋ねる。それが、記憶力いい若い人かもしれないし、年齢を重ねている場数の多さと知識をもっている人かもしれません。
お互いが「学んでいる」という対等な立場で、助け合ってお稽古を進めていくことが、居心地のいい空間をつくっているんだと思います。
私はたまたま、周りの人にも恵まれていただけでしょうか?でも、映画にもなった本「日日是好日」でも
「自分の日常にある人間関係から離れた、もう一つの関係。お稽古場で会い、その場で別れる距離感が心地いい。」
というようなことが書いてあったので、そういう感覚を持つ人が少なくないのかもしれません。
会社や家でちょっとイヤなことがあっても、お茶に行けば居心地のいい仲間と先生がいて、対等に意見交換ができる。
外の世界(会社や家での立場等)の事は、お茶のお稽古に関係無い。日常から切り離されたところにある、自分の居場所という感覚が居心地がいいのだと思いました。
「自分の居場所はここにもある」
と思える。そういうお稽古場っていいな。
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